正統派フレンチを礎に、東京で拓く未来
日本で見つけた無限の可能性
フランス料理の正統派路線を体現する料理人でありながら、20年以上にわたり東京を拠点に活動を続け、日本の食材や文化と真摯に向き合ってきた人物がいる。
彼の料理を言葉で表現するのであれば、「フレンチをベースに、日本の良さを取り入れる」スタイル。それは単なる和洋折衷ではなく、長年培ってきた正統派フレンチの上に、日本という土地でしか得られない感性や素材を重ねていくスタイルだ。
そんな料理を生み出しているのが、東京は日比谷の帝国ホテル 東京の一角にあるフレンチレストランLes Saisons(以下レ・セゾン)のシェフであるティエリー・ヴォワザン(以下ヴォワザンシェフ)だ。そのキッチンには、静かな緊張感と同時に、どこか温かみのある空気が流れている。
ティエリー・ヴォワザン。彼の料理の核にあるのは、フランス料理の揺るぎない基礎。その上に、日本ならではの素材や感性を重ね、和洋の融合を成立させる。
料理人を志した原点と、師から学んだ「人」の在り方
ヴォワザンシェフは、フランス・トゥールの出身。10歳の頃から料理への強い関心を持ち、14歳で調理学校に進学。料理人としての国家資格取得後、本格的に料理人の道を歩み始めた。幼少期、家族旅行で訪れた南フランスの街で、鍋や鍋蓋を巧みに操る料理人たちの姿を目にした体験が、彼の心に強く焼き付いたという。
最初の修業先は、トゥール近郊の田舎にある小さなレストラン「オーベルジュ・デュ・ラック」。そこで出会ったシェフ、ジェラールの存在は、彼の人生観をも形づくるものだった。ジェラールは毎朝、キッチンスタッフ全員に自らコーヒーを淹れていたという。その姿からヴォワザンシェフは、「料理は技術だけではない。人を思いやる心があってこそ、チームは機能する」ということを学んだ。
彼は当時を振り返り、「人を愛すれば、愛で返ってくる」という言葉を大切にしている。この価値観は、後に彼が率いる大規模なキッチンにおいても、変わることなく貫かれている。
フランス料理の頂点で培った構造と哲学
兵役を経て、シャトーダルティニなどで経験を積んだ後、1988年、彼はシャンパーニュ地方ランスにあるレストラン「レ・クレイエール」に入る。料理界の巨匠ジェラール・ボワイエのもとで、副料理長を経て30歳で料理長に就任。
この時代は、彼にとって、クラシック・フレンチの骨格を完全に体得した期間だった。誇りを持って、料理と厳格に向き合う姿勢。ヴォワザンシェフは、ここで学んだ経験があるからこそ、後に日本で革新に挑めたと語る。
古典という基本があるから、新しい発想を加えることができる。これは、彼の料理哲学の核となる言葉だ。
日本へ。すべてを手放して選んだ第二の故郷
2003年、体制変更を機に「レ・クレイエール」を退職。そのわずか数日後、帝国ホテル 東京からオファーが届いた。本人はこの出来事を「運命のようだった」と振り返る。
2005年、彼は家、車、フランスでの生活基盤をすべて手放し、家族全員で日本へ移住する決断を下した。周囲の友人たちは驚き、戸惑ったという。しかし彼自身は、東京が第二の故郷になると、最初から分かっていたと語る。
東京で彼を惹きつけたのは、味噌、醤油、昆布、鰹節、出汁、発酵調味料といった、日本独自の旨味文化だった。それらがフランス料理と結びつくことで、無数の可能性を生むと感じたのだ。
帝国ホテル 東京の中2階にあるレ・セゾン。
東京で直面した壁と、学び続ける姿勢
もちろん、順風満帆だったわけではない。言語の違い、文化の違い、とりわけ日本人特有の婉曲表現には戸惑いもあったという。例えば「ちょっと難しい」という言葉が、実際には「不可能」を意味することがある。その解釈のズレに気づくまで、時間を要した。
しかし彼は、それを障害ではなく、理解を深めるためのプロセスとして受け止めた。日本人には、互いを気遣い、思いやる文化がある。その感覚は、キッチン運営にも大きな影響を与えた。
言葉が完全に通じなくても、料理を通して心は通じ合える。彼はそう確信し続け、今でも日本人中心のチームを組む。彼らを家族のような存在として接し、育てているのだ。
和洋融合を支える明確な戦略と思考軸
ヴォワザンシェフの料理は、感性だけで成り立っているわけではない。彼は料理を構成する要素を、明確に四つに分けて考えている。
1つ目は「プロダクト(食材)」。
2つ目は「シーズニング(味付け)」。
3つ目は「クッキング(火入れ)」。
4つ目は「シェフの心、そして個性」。
この四要素をどう組み合わせ、どうバランスさせるかが、一皿の完成度を左右するという。
食材調達においては、日本産が全体の約85%を占める。不足するものや希少な素材のみ、フランスなどから輸入する。例えばアーティチョークの一種であるトピナンブール(フランスの冬野菜として料理によっては欠かせない素材)などは、輸入に頼る。
魚に関しても、自分の表現したい料理にとって、日本産が万能なわけではないと冷静に見極める。たとえば、加熱用途のヒラメ。メニューによっては、日本産だと、食感が滑らかすぎるため、あえてフランス産を選ぶ。一方で、甘鯛、鱧、鰆、金目鯛、縞鯵など、日本ならではの魚は積極的に用いている。
撮影された皿に見る、彼ならではの料理
取材当日に撮影された三つの料理は、彼の哲学を端的に表していた。
まずは甘鯛を使った一品。うろこを丁寧に外し、高温かつ短時間で一気に焼き上げる“一発勝負”の火入れ。温度は200~230℃を目安に、カウンターで確認しながら調理される。
再加熱は許されないため、盛り付け時間を逆算し、客席に届く瞬間が最良の状態になるよう調理される。
次に、沖縄産アグー豚を使った肉料理️。通常は骨抜きで流通されるが、骨付きのまま本州へ送ってもらう特別な契約を結んでいる。乾燥昆布と抹茶をパウダー状にし、肉にマッサージ。その後、10時間以上の低温調理を施す。
約12年前に完成したこのレシピは、彼自身の100%オリジナルであり、和と仏の本質的な融合を体現している。
そしてデザート️。白ごまのシャーベット、柿のコンフィ、黒ごまのクラウド、紫蘇の花。
まるで日本の儀式を感じさせる素材の組み合わせで、食後に静かな余韻を残す一皿だ。
広がる創造と、次なる挑戦
レ・セゾンでの経験は、彼の料理に確実な変化をもたらした。季節感への意識はより研ぎ澄まされ、素材への敬意は一層深まった。彼は現在でも、半分冗談、半分本気で「納豆を使った新作」に挑戦したいと語っていた。味や香りは許容範囲だが、粘性のテクスチャーが最大の壁だと、笑いながらも真面目に語るヴォワザンシェフの姿は印象に強く残る。チームをまとめる笑顔が、そこにはあった。
印象に残るといえば、彼の使う包丁。使うたびに研ぐ。撮影用のメニューを作る際、ほぼ毎回だ。その行為自体が、素材と向き合う彼の覚悟の表れでもある。そう感じずにはいられなかった。
多様な食の価値観に寄り添う、レ・セゾンの変わらぬ姿勢
ヴォワザンシェフは、ベジタリアンやヴィーガンをはじめとする多様な食の嗜好に対して、長年にわたり柔軟に対応してきた。来日から20年以上、野菜を主軸とした料理の提供は特別な対応ではなく、日常の一部として自然に行われている。ランチ、ディナーを問わず対応可能だ。
同店では、野菜のみで構成された料理も豊富に用意されており、オリーブオイル不使用や乳製品の可否など、個別の要望にもきめ細かく応じている。ヴィーガン対応については、より高度な配慮が求められる分野ではあるものの、数年前より専用メニューを整備し、継続的な取り組みとして確立してきた。
すべてのゲストに等しく質の高い食体験を提供すること。この考え方は、料理のみならず、帝国ホテル 東京とレ・セゾンが大切にするホスピタリティの本質を映し出している。
世界の味が集う都市、東京という食の交差点
海外から東京を訪れる人に体験してほしいのは、「日本料理」だけではないと語るヴォワザンシェフ。
東京の最大の魅力は、世界中の料理が、極めて高い水準で味わえる都市である、ということ。日本料理は言うまでもなく、フランス料理、イタリア料理、スペイン料理、韓国料理、いずれにおいても、東京では驚くほど完成度の高い一皿に出合うことができる。
理由は、日本の料理人たちが、料理を学ぶ際に必ず「本場へ行く」という姿勢を貫いてきたからだ。イタリア料理を志せばイタリアへ、フランス料理を学ぶならフランスへと渡り、長い時間をかけて技術と文化を身につけてから帰国する。そうした背景が、東京のレストランの質を支えているのだ。
その一皿の先にあるもの。日本で味わう、食の時間の美学
海外から日本を訪れる方に伝えたいのは、「食事の体験は、料理だけで決まるものではない」ということ。
ヴォワザンシェフが、とあるシェフから教わった、レストランは三つの要素で成り立っている、という考え方があるそう。料理そのもの、空間やサービス、そしてテーブルを囲む人たち、という3つの要素だ。この中で、料理や空間はレストラン側が整えることができるが、テーブルの雰囲気は、そこにいる人たち自身がつくり出すもの。
日本のレストランでは、周囲への配慮や落ち着いた振る舞いが、とても大切にされている。大きな声で話さない、同席する人への敬意を忘れない、といった心がけがあるだけで、食事の時間はより豊かなものになるはず。
料理を味わうためには、料理だけでなく、その場の空気を楽しむことも重要。そうした意識を持つことで、日本での食体験は、より深く、心に残るものになるだろう。
料理とは何か? シェフとしてのメッセージ
「料理は良い素材、情熱と謙虚さ、そして何より愛だ。」
ヴォワザンシェフのこの言葉が、彼のすべてを表している。
料理は自己表現であると同時に、誰かの人生の一瞬に寄り添うもの。経験、師との関係、文化の違いを尊重しながら、一皿で感動を届ける。それが、彼にとって料理をする意味だ。
もし、朝起きて「今日の皿」を考えなくなったら、料理人を辞めるかもしれない。
そう語る彼にとって、東京は今もなお、刺激と創造に満ちた場所であり続けている。 フランス料理の基本に、日本ならではの素材や特徴を重ねることで生まれる、無数の可能性。
その東京の最前線に、ヴォワザンシェフは今日も立っている。
帝国ホテル 東京中2階「レ・セゾン」シェフ
ティエリー・ヴォワザン
ティエリー・ヴォワザン。フランス伝統料理を礎としつつ、日本の食材や文化を巧みに取り入れることで、自身の料理に独自の進化を遂げたシェフ。フランスの名店で研鑽を積み、30歳で「レ・クレイエール」の料理長に就任。2005年より帝国ホテル 東京Les Saisons(レ・セゾン)のシェフとして、日本の四季や素材を生かした料理を提供し続ける。
住所
東京都千代田区内幸町1丁目1−1
www.imperialhotel.co.jp/tokyo/restaurant/les-saisons
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