江戸・明治時代に花開いた「五大丼」の一つ、親子丼のルーツを訪ねる
東京を代表する五つの丼料理をご存じですか?
江戸時代から明治時代へと移っていった19世紀の東京では、うな丼、天丼、親子丼、牛丼、かつ丼という、いずれも東京発祥とされる料理が続々と誕生しました。
当時の東京は、人口100万人を超える世界有数の大都市でした。全国からさまざまな物産が集まり、日本橋には魚河岸(水産市場)があり、今に続く多くの老舗の商店が集まり大変な活気を見せていました。さらに、歌舞伎や人形芝居といった娯楽文化も発展し、「早く、おいしく、手軽に食べられる料理」が重宝されたのです。
大きな器(=丼)に温かいご飯をよそい、その上に味付けした具材をのせ、蓋をして冷めにくくした丼料理は、忙しく働く人たちや芝居見物を楽しむ人たちにぴったりの、いわばファストフードとして支持されていったのです。
これら五つの丼料理が、正確にいつ、どのような経緯で生まれたのかについては諸説あり、断定するのは困難です。けれども、親子丼については発祥の店と時期についての異論が少なく、発祥とされる店を訪ねて東京の食の歴史を体験することが今もできます。その店とは老舗の鳥料理専門店「玉ひで」です。
創業1760年、軍鶏肉のすき焼きがルーツ
玉ひでが位置するのは、日本橋に隣接する人形町。江戸時代から東京の商業の中心部であり、芝居小屋が集まっていたため芝居見物客でも賑わいました。今でも創業数百年の老舗商店や飲食店が点在するエリアです。
創業は1760年(宝暦10年)。現当主で八代目の山田耕之亮さんによると、創業当初は闘鶏用の鶏である軍鶏(しゃも)鍋の専門店でした。
「軍鶏鍋は、すき焼きの原形といえます。玉ひでの軍鶏鍋は、軍鶏肉と長ねぎなどを鉄鍋で焼き、醤油とみりんを合わせた甘じょっぱい『割下(わりした)』で味付けをして食べます。現代ではすき焼きといえば牛肉ですが、牛肉のすき焼きが広まる以前から江戸では軍鶏鍋が親しまれていました」と山田さんはいいます。
玉ひでの創業者は江戸幕府に仕えていた「御鷹匠(おたかじょう:将軍家に仕え、鷹狩りの鷹を扱う役)」でした。鳥をさばく技術をもっており、また、御鷹匠という高い身分であったことから、当時貴重だった醤油とみりんを入手することができたため、大名からの依頼に応じて出張料理という形で軍鶏鍋の事業をスタートしたそうです。
丼誕生のきっかけは、客が作っていた「親子煮」
軍鶏鍋の店で親子丼が誕生するきっかけは、客の行動からでした。「軍鶏鍋の最後にお客様が生卵を注文して、鍋に残った肉と割下を溶き卵でとじて『親子煮』としてご飯と一緒に食べていました。それを見た当主の妻が、親子煮をご飯にのせた料理を考案したのです。これが親子丼の始まりで、店に残っている資料から1891年のことだと判明しています」。考案者である山田とくさん(現在の当主の曾祖母)の写真は、玉ひでの店内に飾られており、その前には毎日、親子丼が供えられています。
誕生した当時の親子丼は、出前専用のメニューだったそうです。「当時の日本では、ご飯の上に具材と汁をかける料理は上品ではないとされていました。ですから店の格を落とさないために、出前だけで売り出されました。店の近隣には日本橋の魚河岸や、兜町の東京株式取引所(当時)があり、忙しい仕事の合間に食べられる料理として親子丼はひいきにされたようです」
ちなみに、現在では庶民的な料理というイメージのある親子丼ですが、当時、軍鶏と卵はとても貴重な食材。「現在の貨幣価値にすると、親子丼は1杯5000円くらいでした。また、器は木をくり抜いて漆を塗った高価なものが使われており、配達先は信用のある得意先に限られました。親子丼は、仕事などがうまくいった際の“ごほうびご飯”という位置づけだったようです」と山田さんは先祖から聞いています。
その作り方を厨房で見せてもらいました。
最後に生卵をかけ足してトロトロに仕上げる
親子丼は、銅でできた浅いフライパンのような形の専用鍋で、一人分ずつ作ります。
味付けは、親子丼専用の割下を使います。醤油とみりんを、昆布と鶏肉でとった上品な出汁で割ったものです。
鍋にこの割下を入れ、下味をつけておいた軍鶏のモモ肉とむね肉を6:4の割合で加えます。
割下が沸いてきたら、溶いた生卵を半分くらい入れます。中火で3分弱加熱し、卵が全体に固まってきたら、残しておいた生卵を上からかけ足します。
後から入れた卵が温まったら火を止めて、丼によそったご飯の上にさっとのせ、すぐに蓋をして客席へと運びます。
「蓋をして蒸気で蒸らす時間も調理時間だと考えています。具材とご飯に一体感が生まれ、おいしくなります」と山田さん。蓋を開けたときに、こもっていた湯気と香りが客席でふわっと立ち上り、食欲をそそります。
玉ひででは、箸を使うのが苦手な人も食べやすいように、箸と一緒に専用のスプーンも出てきます。「親子丼は、作りたての熱々のときと、少し時間がたったときとで、卵の色や味わいも少しずつ変わっていきます。お店で召し上がるときは、ぜひ熱々のおいしさを味わってください」。テーブルには、玉ひでが親子丼に合うよう独自に開発した、黒胡椒と山椒をきかせた七味唐辛子が用意されているので、お好みで振りかけてどうぞ。七味唐辛子も江戸伝統の味です。
ブランド鶏「東京しゃも」の開発にも関わる
玉ひでの親子丼は、主な材料は軍鶏の肉と鶏卵とご飯というシンプルなものです。調味料も醤油とみりんだけ。伝統の、江戸前の味を守る使命を大切にしていた山田さんの父(先代の当主)は「私だって、もしこれを自分で作れって言ったら、もうちょっとうまく作るよ。だけど、味は変えられないからね。こういうものだと思って食べてもらいたい」とよく言っていたそうです。山田さんも基本的な形は守りながら、甘じょっぱすぎると感じていた味付けを時代に合わせて調整して現在は提供しているといいます。
さらに、伝統の味を守っていくために、玉ひででは生産者や調味料メーカーにリクエストしたり協力を仰ぎながら、数十年単位での改良を続けています。
まず挙げられるのが軍鶏です。「1960年代半ばごろから、日本の養鶏ではブロイラーの普及によって生産性の高い肉用鶏が主流になり、日本の伝統的な鶏が消えてしまうのではという危機に直面しました。親子丼は肉の味が料理の味にそのまま表れてしまうため、日本の伝統的な地鶏(軍鶏など)を復活させないと味を継承できない。そのため、東京都畜産試験場(現東京都農林総合研究センター)と一緒に“東京しゃも”を開発・普及させようと取り組みました」。七代目である山田さんの父の代からの取り組みはブランド鶏「東京しゃも」を生み出して実を結びましたが、その育成はまだまだ改善の余地があると山田さんは考えています。「東京しゃもは、日本で流通する鶏の中でも特に歯ごたえが強いものです。筋肉が発達して歯ごたえが強い肉は、うまみを感じやすい。そして若すぎるのもダメで、130日くらい育てないとおいしくならないのです。今はもっと長期間飼育をすることも検討しています。」
甘じょっぱい江戸の味の決め手となる醤油とみりんについても、メーカーへのリクエストを続けてきたといいます。「うちが使っていた大手の醤油メーカーは、大量生産で酸化防止剤を入れていたのですが、『昔ながらの製法を用いた醤油をつくれないか』と意見し続けて、彼らは昔の製法でも作るようになりました。みりんメーカーも同じです」。伝統の味を継承していくことは、店だけの努力では成し遂げられないのです。
玉ひでが日々改良を重ねて守っている「江戸伝統の味」。食べに来てくれる人に、お願いしたいことがあると山田さんはいいます。「一つの料理は、お一人おひとりのためにあるものですから、ご来店の際はそれぞれに注文して味わっていただけたらうれしいですね。『あの店はいつも行列しているらしいから』『なんか有名らしいから』というだけじゃなく、日本の伝統的な味を楽しみに来てもらえたらと思います。卵が半熟だったり、醤油の香りが強かったりするのは初めての食体験になるかもしれませんが、これこそが玉ひでの伝統的な味なのです」。
山田とくさんが親子煮をご飯にのせてから130年あまり。親子丼はいまや人形町を離れ、老舗の専門店から街の食堂、百貨店のレストランまで、東京のいたるところで味わえる料理になりました。東京の食文化の一つとして、ぜひ一杯の親子丼を味わってみてください。
東京で食べられる様々な料理や東京の食文化については、他にも本サイト内で紹介しているのでご覧ください。
玉ひで
山田 耕之亮
やまだ こうのすけ
1961年12月4日生まれ、東京都出身。玉ひでの山田家に長男として生まれ、中学生のころから店の手伝いをして過ごす。1983年、法政大学卒業。人形町の料亭「玄治店 濱田家」での修業を経て玉ひでに入り、1998年に8代目を継承。伝統の味を守りながら新しい試みにも前向きで、時代に合わせたメニュー開発や価格設定を行ってきた。生まれ育った日本橋人形町の文化を守りながら、街を活性化することにも尽力している。
住所
〒103-0013 東京都中央区日本橋人形町1-17-10
http://www.tamahide.co.jp/
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